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釜石の真実、花よ伝えて 妻は津波に - 名無し (?)

2015/03/10 (Tue) 05:53:30

釜石の奇跡――。その言葉を初めて聞いたときの驚きを、今も覚えている。

 岩手県釜石市の木村正明さん(59)の妻タカ子さん(当時53)は、市立鵜住居(うのすまい)小学校の事務職員だった。あの日、児童と教員が高台に逃げるなか、1人だけ職員室に残った。津波は校舎全体をのみ込んだ。

 漁師の娘で、津波の怖さを知っていた妻。「当然、逃げていて大丈夫」と思い込んでいた。だが震災2日後、「奥さんが行方不明」と学校側から明かされた。

 仮設校舎の校長室。「母ちゃんだけなぜ逃げなかったのか」「残れと指示したのか」。真相を知りたい。質問を繰り返した。親族や、自らも震災で家族4人を失った幼なじみの佐々木雄治さん(59)も、同席してくれるようになった。

 その言葉を聞いたのは、学校や市と話し合いを繰り返していた震災の年の12月。市の幹部が復興計画を説明する場だった。「奇跡だって?」

 鵜住居小では、学校にいた児童は全員避難して無事だった。そのことで学校が称賛されていた。「行方不明で戻らない妻の存在を、消し去ろうというのか」

 「釜石の奇跡」という言葉は、新聞やテレビに次々と登場した。教育用DVDや内閣府の防災白書の原案にも。被災地の観光ガイドも口にした。

 「聞く度に傷つく」。困惑を何度も市にぶつけた。訴えを受け止めた市は2013年3月、「釜石の奇跡」を使うことをやめた。「奇跡ではなく訓練の成果」として「釜石の出来事」と言い換えた。内閣府も防災白書の原稿を修正した。

 妻の死を巡る市との話し合いはなお続き、15回を数えた。分かったのは、「児童の親からの電話に備えて職員室に残ったのかも」ということだけだった。

 昨年秋。真相追及に区切りをつけた。

 月命日には、妻の話が聞こえてきていた。学校の用務員は「残ろうとしたら、奥さんから『避難しなさい』と言われて逃げた。命の恩人」と言った。

 結婚して22年目。まっすぐで厳しいが、優しい女性だった。学校の廊下を走る児童をしかったが、慕われた。震災前年には児童たちから「感謝のメダル」をもらった。脳梗塞(こうそく)で倒れて足の不自由な母を、嫌がられながらもリハビリのために歩かせた。

 それまで、市との話し合いの場以外、妻の話をすることを避けてきた。「危険を覚悟で職務を全うした」と、美談にされるのが嫌だった。だが生前の妻の話を聞くたびに、「もっと私のことを伝えて」と妻が言っているように思えてきた。

 妻のことを語ろう。そう決めた。

牛乳とトマト。母の介護と仕事で多忙な妻の朝の定番メニューだった。トマトは野菜ジュースに代えたが、会社勤めの自分の体調を気遣ってくれた妻を思い、今も牛乳を飲み続ける。

 妻が勤めた小学校の跡地には競技場が造られ、19年ラグビー・ワールドカップの会場になる。妻と暮らした自宅跡には、小中学校が再建される。

 当初は「なんで母ちゃんの住んでいた土地に」と思い、売却を求める市に答えを保留してきた。昨年夏、自ら市に土地の提供を申し出た。世界的イベントを機に一帯を復興させようという地域に、迷惑をかけたくなかった。

 鵜住居から離れた集落に土地を買った。今年中に家を建てる予定だ。

 2年後に開校する学校の花壇には、妻の好きだった花を植えてもらう。春はスイセン、夏はベゴニア、秋はシュウメイギク……。

 花の世話をしながら思いをめぐらして欲しい。あの日の出来事、そして妻に。

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